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2013/03/09

魚屋さんと町の人を新しい形でつなぐ―磯場屋学校

「磯場屋学校」のことを知ったのは、10月に浦河に来てまもなくのこと。地元で穫れた魚の捌き方を磯場屋(魚屋)さんから学び、美味しく食べる、というその学校のコンセプトは、魚の美味しいと言われる町にやってきた移住者が、まさに求めていたもの。私もチラシを見て、思わず「これ行きたい!」と叫びました。






10月の半ばに参加した今年度1回目の「磯場屋学校」。校長は池田鮮魚店の池田義信さん。サメガレイの捌きといくらの醤油漬けづくりに挑戦します。サメガレイの捌きは校長、いくらの醤油漬けは、校長夫人である池田さんの奥さん、あつ子さんが担当。磯場屋さんという営みの中にある知恵がふんだんに盛り込まれたお二人の話を聞きながらの実習はとても楽しく、転勤してきたばかりのご夫婦、地元の主婦、浦河に赴任してきた独身男性など15人が2人を囲み、調理室の中はにぎやかです。浦河の磯場屋さんの中で、今のところ唯一後継者のいる川潟商店の三代目、川潟亮滋さんもアシスタント役で加わります。一方、教頭の小野多圓さんは、開始の挨拶の後は、そのすらりとした背中をこちらに向けたまま、実習後に参加者にふるまう料理をひたすら調理していたのが印象的でした。実習後は、浦河の魚をいろいろな形で食べてみて欲しいと、小野さんやボランティアスタッフの手でフレンチやイタリアンに仕上げられた魚料理を食べながらの交流会。「こんな学校があるなんて、浦河は普通の町じゃない!」と興奮気味に話す、参加した主婦の方の意見には私も深く頷きました。




私自身、磯場屋学校に行ったことで、まずは磯場屋さんの存在を知り、そこでは、その日、浦河の前浜で揚がった魚が商われていること知り、丸ごとの魚の美しさを知り、魚をさばくのが意外と面白いことを知り、そうやって食べる魚が美味しいことを知りました。都会では魚を買うことすらほとんどなかったのが、浦河にきて、魚は全て磯場屋さんで買うようになりました。

その後、この素敵なプログラム「磯場屋学校」は、役場職員である小野さんがきっかけとなって、3年前にはじめられたことを知りました。小野さんが、毎朝出勤前に、日高中央漁協の市場に通っているという噂を聞き「磯場屋学校」のブログをのぞいてみると、確かに、毎日のようにその日揚がった魚のレポートをしています。その魚をどうやって食べれば美味しいか、どんな漁の仕方で穫るか、今期の漁獲量はどうか、など、充実した内容です。フェイスブックでは、もっと気軽に、時にはダジャレ混じりに浦河の魚の写真を紹介しています。また、誰かが浦河の魚について少しでも触れたなら、その魚の説明や、調理法の提案などを、即座にコメントします。「小野さんは本当に魚が好きなんだ」と思い、敬意を込めてこっそり「浦河のさかなクン」と呼ぶようになりました。




いつか一度、きちんと「磯場屋学校」の話を聞いてみたいと思い、2月のある朝、小野さんと市場で待ち合わせました。小野さんは、時化で漁がない時や浦河を留守にしている時以外、毎朝7時50分頃には市場に着き、揚がった魚をひととおり見て、写真を撮り、わからないことがあれば知り合いの磯場屋さんたちに質問し、セリが始まる前、8時10分くらいには、職場に向かいます。「魚のこと、昔から詳しいんですか?」と聞くと、「いや、市場に通うようになってから少しずつ覚えていったんだよね」と。さらに「どうして市場に通うようになったんですか?」と尋ねると、以前、水産の部署にいた時に、この市場の新設を担当したことがきっかけだと。部署は変わってしまったけれど、自分が担当した施設が、実際どう活用されているのか、この目で見届けたいと思ったから、と言うのです。あれ、想像と少し違うなと思いはじめました。

漁協の食堂に移動して、コーヒーを飲みながら聞いた「どうして『磯場屋学校』をはじめたんですか?」という問いへの答えは、「魚が好きだから」というような直接的な理由を想像していた私にとっては、全く予想外のものでした。
「大通地区の商店がどんどんさびれていくのを見て、何かしたいと思ったんだよね。小さい頃、暮らしていた場所だから。衣食住と3つあるとしたら、食からかな、と。それで、まずは池田鮮魚店の池田さんのところに行ったんだよね」。
池田鮮魚店は、子どもの頃から知っていたけれど、池田さんとは特に親しい付き合いをしていたわけではなかったといいます。「大通地区の人口はこんなに減ってるんですよ、世代も高齢者中心になってきているんです、とデータも見せながら説明すると、池田さんは、それだものお客さんも減るよね、と納得してくれた」。町の人、特に若い人たちに、地元の魚の美味しさや、磯場屋さんの存在を知ってもらうための「磯場屋学校」を一緒にやってもらえないか、という小野さんの誘いに、池田さんは快く乗ってくれたといいます。「『自分が表に出ると、どうしても役場がやっているように見えてしまうので、自分は裏方に徹することになるけどいいですか?』という提案にも、いいよって言ってくれたんだよね」。




そうして磯場屋学校がスタートしたのは2010年9月。池田さんは、最初こそ、お店とは勝手が違う状況に戸惑っていたけれど、すぐに、校長と生徒という町の人たちとの新しい関係を十分に楽しんでくれるようになりました。また、2年目に、小野さんが池田さんに「塩辛づくり」をやってみたいと言った時には、港で漁師さんにつくり方を教わってきてくれるなど、今では中身づくりにも主体的に関わってくれているといいます。

一方、小野さんは、磯場屋学校のスタートと同時にブログを開設。最初は浦河の磯場屋さんや、そこで扱われている地元の魚、料理法などを紹介しながら、時には、漁業のこと、あるいは魚食文化のことなどを、発信してきましたが、去年の1月からはそこに市場レポートが加わりました。「どうして毎日市場に通い続けるかって?尊敬する池田さんとタッグを組むからには、中途半端な知識ではいけない。もっと勉強しなければ、という気持ちがあると思う」と、小野さんは言います。



「磯場屋学校の教頭をしています。副業は役場職員です」というのは、まちづくりの勉強会や交流会での小野さんのいつもの自己紹介です。ずっと、磯場屋学校のことを印象的にアピールするためだと思っていたのですが、いろいろ話を聞くうちに、意図は違うのか知れない、と思うようになりました。彼にとって、役場の仕事と、磯場屋学校の運営は同じくらい大事なこと。だからこそ、磯場屋学校「も」本業なのだ、と。

役場は公務員として関わる公共(official)の仕事、磯場屋学校は一町民として関わる公益(common)の仕事。そこには、やはり違いがあるといいます。「役場ではどうしても公平性を重視するし、あくまで町民の自発性を尊重することが大事になってくるんだよね。そういう意味では、水産担当の時に、あくまで一町民の立場でも、自分から池田さんに磯場屋学校を始めようと持ちかけるのは難しかったかも知れない」。もし、いつか異動で水産担当に戻ってしまったら?「その時には、磯場屋学校は新しい運営方法を考えつつ、磯場屋さん以外のお店と新しい試みを始めてもいいかも知れない。磯場屋学校は、大通にある商店が、時代や町の変化に合わせて商いの形を変え、元気を取り戻すことを一緒に考えていく、ひとつ目のチャレンジだから」。

あんなに一所懸命に磯場屋学校をやっているなら、さぞ思い入れが深いのではないか、と思っていた私の思い込みを鮮やかに裏切る、軽やかさでした。同時に、一町民として、自分が暮らしてきた町に、どんな形でも一町民としてずっと関わっていく、その覚悟を感じました。「自分の想いをもって、個人の責任で、自由にいろいろ試していけるのは、やっぱり楽しいよね」。そういいながら、その町民としての活動の中で町の人から聞こえてくる声を町政に生かそうとする自分もいるといいます。




浦河に来てから、小野さんのように、公務員としての仕事を全うしながら、同時に一町民として、まちに関わる人々をたくさん知るようになりました。公務員に限らないかも知れません。仕事を通じてまちと関わりながら、同時に、まちに対する思いをもって、仕事とは別の形で、まちと関わる人が多いように思います。それがこのまちの魅力のひとつなのだ、と改めて思いました。

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磯場屋学校
年1回(2日間)開催(10〜11月頃)
※参加者募集は磯場屋学校ブログや町内のポスター掲示などで行います。

校長 池田義信
校長夫人 池田あつ子
教頭 小野多圓
アシスタント 川潟亮滋

磯場屋学校ブログ
http://isabaya.jugem.jp/

(うらかわ「食」で地域をつなぐ協議会 研修生 宮浦宜子)

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